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絵が一流の人は、文章も上手い。

前回の記事、宇野亜喜良さんのトークショー&ライブペイント「宇野亜喜良、描く。語る」の続編です。
印象に残った話だけど書くとあまりに文章が長くなりそうでやめたことを、書きます。

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「絵が一流の人は、文章も上手い。」

これは、宇野亜喜良さんのコメントではなく、幻戯書房の編集者の女性が宇野亜喜良さんの文章を読んだ感想としておっしゃったことです。


その女性編集者の方が宇野亜喜良さんにダメもとで勇気を出してオファーしたことがきっかけで実現したのが『奥の横道』という本で、宇野亜喜良さんが地方の新聞に連載していたエッセイをまとめたものだそうです。

この『奥の横道』は、見開き2ページが一組で、右ページにエッセイと俳句・左ページにイラストレーションという構成になっているそうです。

(余談)
幻戯書房は主に文芸系の書籍を出している出版社で、画集などは扱っておらず、今回のような絵も見せる本を出すのは一つの挑戦だったそう。この宇野亜喜良さんの本を出した事によって「良い本を出しているね」と会社の評判が上がり、社員の方々も喜んでいるらしいです。


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標題の件に戻します。

その女性編集者の方(つまり読書体験が豊富と思われる方)が、
「本当、思うんですけど、絵が一流の方って、文章を書いてもお上手なんですよね…。宇野亜喜良さんもやはりそうでした。絵を描かれている奥に、それだけのバックグラウンドがあるんだなぁ、ということを感じます。」
というようなことをおっしゃっていました。


この絵と文章の関係について私は前々からひっかかっていて、思うのは、
どうやら “文章が上手いと、絵も上手い” は直結しないみたいですが、
“絵が上手いと、文章も上手い” はやっぱりあるみたいだ、ということです。


文章の表現の傾向は、叙情的であったり物語的であったり論理的であったり映像的であったり散文的であったり、様々だと思いますが、たしかに第一線で活躍されている方は文章も上手。書いてみたら結果的に、ということのよう。


そこで、
「文章を練習すると、絵も上達するのだろうか?」
ということを私は考えています。
それが、こうしてブログに文章を書いているいくつかの理由の一つでもあります。
(絵が上手くいっている人は、こんなこと考えないと思います…。絵をたくさん練習すればいいのにね…。)
私は長い間、何を描いていいのかわからず絵に対してうまく取り組めていないので、書くことから糸口が見つからないのだろうか?なんてことを思い巡らしたりします。


それと、“文章が上手いと、絵も上手い” もあるんじゃないかなぁと思っているのですが…。以前、TAGBOATの多田琢さんもおっしゃっていたけど「絵は誰にでも描ける」わけで、本当はみんな描けるのだけれど、実際に描く人が少ないということなのだろうと思います。

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文章を書く=言葉をあやつるということで、言葉と絵について。
それと、言葉の呪縛について。言葉と音楽について。


『子どもの絵はなぜ面白いか』(1986年・安斎千鶴子著)という本に、言葉は人の思考の第一の道具といってよいもので、人類の歴史の中でも、絵より先に生まれたもの、という話が出てきます。

その歴史と同じように、子どもの言葉は、絵より先行する
まだ喋れない子どもは、運動として線や点は描けても、意味ある形は描けない。


「おそらく、あるものを紙の上の線や点として認めることができるためには、その代用物となる特徴を記憶し、それを線や点と照らし合わせることができる力が必要なのです。それを助けるものがことばだと思います。」
とあります。


(古い本なので、今もこの情報で合っているのか心配ですが、合っていると仮定すると、)
まず人は言葉で理解して、その概念を絵にしている、ということになります。
はじめに言葉ありき。


私は感覚的に漠然と、「『自分は絵を描くことが得意なので、文章は書けないです』っていうのは何か違うんじゃないんじゃないか、絵が描ける事は文章が書けない理由にはならないんじゃないか」という気がしていましたが、上記のことをふまえると、案外当たっているかもしれません。


しかし、こうして色々考えていると、何かにとらわれて大事なことを見落としそうですね。
よく耳にする話で、人間は言葉があるからこそものを考えられるけど、言葉で思考する限り、思考が言葉の檻の中に縛り付けられている、というのが頭をもたげてきます。言葉にできない何かが、言語化した途端こぼれ落ちてしまう。


昔タモリさんも、
「ものを知ろうとして、コトバを使うと、一向に知りえなくて、ますます遠くなったりする。それでおかしな方向へ行っちゃう。おかしいと思いながらも行くと、そこにシュールレアリスムなんかがあって、落ち込んだりする。何かものを見て、コトバにしたときは、もう知りたいものから離れている。」
と言ったみたい。(タモリVS松岡正剛『愛の傾向と対策』(1980)の紹介サイトより


音楽の話。
では、絵と言葉が繋がっているのなら、音楽も言葉と繋がっているのか?という疑問も浮かぶのですが、絵とは成り立ちが違うような気がします。
坂本龍一さんが「音楽は音として聴いてるので歌詞の内容は全く頭に入ってこない」と言っていたことからしても、音楽は聴覚で直接反応していて、言葉の呪縛を逃れることができるのかも、と思います。(あれ?じゃあ絵は視覚的に…??)


絵は言葉にできないものを表現できるとか言うけれど、音楽こそが言葉にできないものを表現できるのかも、と考えたりもします。


話がしっちゃかめっちゃかになってきましたが、一応まとめると、
言葉と絵の両方を練習すると、絵が上達するかもしれない、…です。
(けっきょく現状通り…。さっさと絵を練習すればいいのにと自分でも思います…。)



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